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 (後妻の息子、サフォーク伯爵トーマス)

 ところで、4代目ノーフォーク公トーマスの最初の妻、メアリー・フィッツアラン(フィザラン)は、アランデル伯の一人娘だった。

 14歳でトーマス結婚して翌年に跡継ぎのフィリップを生み、2年後に2度目の出産のために死んでしまった。
 そのため、メアリーの持っていたアランデル伯爵位継承権は、息子のフィリップに自動的に譲られた。

 その後トーマスは、マーガレット・オードリーという女性と再婚した。
 しかし彼女との間に生まれた子供たちは、決して先妻メアリーの財産を継ぐことはできない。
 妻の財産は、妻が生きている間は夫が好きにできるが、亡くなったとたん、妻の生んだ子以外相続できないのだ。

 マーガレット・オードリーの生んだ息子トーマスは、1603年、42歳でジェームス1世即位にともない、ようやくサフォーク伯爵の地位を得る。
 父の財産の取り分は、1584年に許されて継承している(ただしノーフォーク公爵位は無し)今後わかりにくいので、このトーマスを「サフォーク伯爵」と呼ぶ。
 彼は1588年6月25日、無敵艦隊を迎撃する友軍に参加した功績で、英国海軍最高司令官チャールス・ハワードからナイトの称号を授与されている。
 ちなみに、この司令官チャールス・ハワード(ノッティンガム伯)は、3代目ノーフォーク公トーマスの異母弟の息子だった。

 その後サフォーク伯は1591年アゾーレス諸島から出航したスペイン帆船を襲撃して掠奪した
 功績により、アゾーレス諸島副提督の地位と、ガーター勲章を手に入れた。
 女王エリザベスはサフォーク伯をたいそうお気に入りで、手紙の中で「良きトーマス(good Thomas)」と呼んでもてはやした。
 1597年にはウォーデン男爵、翌年にはアイルランド提督となり、スチュアート王朝に交替してジェームス1世から正式にサフォーク伯爵位を賜ったのである。

 ところが1616年、娘のフランシスが、夫のサマーセット伯と共謀して、2人の結婚に反対したトーマス・オーバーベリーを毒殺したとして逮捕された。
 夫妻は有罪になったが、実行犯2人が処刑されただけで、かろうじて死は逃れた。
 サフォーク伯自身もまた、妻キャサリンが夫の大蔵卿の地位を利用して、国庫から金を横領したことが発覚し、罰金刑と10日間のロンドン塔監禁を命じられている。
 そのため、翌1619年、トーマスは大蔵卿の地位を退き、7年後の1626年6月4日、チャリング・クロスの自宅で病没した。

 一方、アランデル伯爵となった、最初の妻の息子、フィリップはどうなったのだろうか。

 

 (先妻の息子、アランデル伯爵フィリップ)

 アランデル伯爵フィリップは1557年(or1555)6月28日、最所の妻、メアリー・フィッツアラン(フィザラン)の長男として、ロンドンの母の実家アランデル邸で生まれた。
 その名付け親に、ヨーク大主教ニコラス・ヒースやスペインのフェリペ2世が務めるという華やかさであった。

 しかし時代はカトリックのメアリー女王から、リベラルな新教徒エリザベス1世へと変わっていた。
 フィリップもまたプロテスタントの教育を受け、エリザベスの宮廷では、頭の回転のよいハンサム・ボーイとして女王のお気に入りであった。
 1581年、ロンドン塔でカトリックの囚人であったエドモンド・キャピオンらと接触した頃から、カトリックの信仰に目覚めた。
 同時に妻のアン・ダークレーも、夫に従って密かにカトリックへ転向した。
 それを知ったエリザベスはフィリップをロンドン塔へ投獄し、妊娠中であったアンを宮中から追放して、サリーの邸宅で謹慎を命じた。アンは軟禁状態の中で、長女エリザベスを出産した。

 徐々に増していくカトリック迫害の気配を前に、フィリップはフランス亡命を決意したが、出航後船長に裏切られ、本国に連れ戻された。
 1585年4月25日、彼は再びロンドン塔に投獄されてしまった。
 そして1588年、スペイン侵略の手助けをした、として裁判にかけられ、有罪宣告が下された。
 死刑だけは逃れたようである。

 その後11年間、フィリップは塔の中で、祈りと瞑想で残りの人生を費やす。
 おそらく女王の指示であろう、フィリップは徐々に毒を盛られ、死につつあった。
 その苦悩は、ボーシャン塔の石の壁にこう刻まれて残された。

「Quanto plus afflictiones pro Christo in hoc saeculo, tanto plus gloriae cum Christo in futuro" 」
(the more affliction we endure for Christ in this world, the more glory we shall obtain with
 Christ in the next)
(来るべきキリストの来世での栄光を得るために、現世で堪え忍ばなければならない苦悩
 1587年6月22日、アランデル/訳著者//英訳提供・SAKKOさん))

  1595年10月19日、フィリップは塔から出ることなく、息を引き取った。享年38歳。
 それから400年後の1970年10月25日、時の法王パウロ6世によって殉教者の1人に奉られたという。
 遺体は当初、処刑された父や祖父と同じ、ロンドン塔内の聖ピーター教会に埋葬されていたが、後に未亡人アンの手で改葬され、1971年になってフィザラン教会に移されている。

 信仰のうちに亡くなったフィリップだが、その息子トーマスはまた違った人生を歩んだ。
 2代目アランデル伯爵は森護氏によれば「特筆すべき人物ではない」そうだが、実はコレクターとして名高い人物だった。
 彼はローマに赴いて古代彫刻を収集し、オックスフォード大学に寄贈していて、その大半が現在はアッシュモリン美術館の基礎をなしている。また、その膨大な図書コレクションもまた、現在は大英博物館に収蔵されている。そうした裕福さは、ひとえに大富豪であったタルボット家から迎えた妻アリシアの財力のおかげであった。

                  
                   
参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castell
Tudor England (Whos Who in British History Series, Vol.4) by C.R.N.Routh
イギリス文学小辞典 北星堂書店
シェークスピアの女たち 青山誠子 研究社選書
英国の貴族 森護 大修館書店
SAKKOさんサイト/レディ・ジェーン・グレイ


 

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