top of page

エリザベス・シーモア(伝キャサリン・ハワード) /ホルバイン作/ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵                 

エリザベス・シーモア
(1500or05?~1561or63?)


シーモア家の家系図

 ここに1人の女性がいる。エリザベス・シーモア。
 妹が英国王妃であったという以外には、とりたてて歴史に名を残す人物ではない。
 しかし残された肖像画が、ヘンリー8世第5王妃だったキャサリン・ハワードと取り間違えられたために、その美しい容姿だけ後世に伝えられることとなった。
 キャサリン・ハワードが王妃であった時期が短かった上に、処刑されてしまったために、これまでキャサリンだと特定された肖像画は一枚もない。
 だが、なぜエリザベスと間違えられる結果となったのか、理由は定かではないものの、ある意味数奇な女性であったといえよう。

 エリザベスは、1500年から1505年の間に、ウィルトシャーのシーモア家の館だったウルフホールに誕生した。
 妹の英国王妃ジェーンですら、生年が断定できないのだから、ましてや無名の姉の生年が、はっきりしないのも無理はない。
 エリザベスは13歳の若さで、ジャージー島の領主であるアンソニー・オートレッドに嫁ぎ、1533年頃、当時王妃あったアン・ブーリンの侍女として宮中に上がった。
 「オートレット夫人」と呼ばれ、アンに気に入られていたという。
 同年9月7日、第2王女(後のエリザベス1世)の誕生の場にも立ち会った。
 もしアンが男児を産んでいたら、お気に入りの侍女として羽振りがよかったかもしれない。

 しかしアンはやがてヘンリー8世の寵愛を失い、かわりに愛されたのが、なんと妹のジェーンだった。ジェーンもまた姉エリザベスとともにアン・ブーリンの侍女の1人であったが、若く独身だったために、初めからアンに警戒されていた。アンはジェーンと夫の仲に勘づき、刃物を持って追いかけ回したこともあった。
 アン・ブーリンのお気に入りだったエリザベスは複雑な心境だったに違いない。

 やがてアンが王妃の地位を奪われ、処刑された後、妹のジェーンは王妃になった。
 1537年、前年夫を亡くしていたエリザベスは、兄の薦めで大法官トーマス・クロムウェルの息子グレゴリーと再婚した。 しかし、エリザベスの幸運は長続きしなかった。妹ジェーン王妃は同年10月24日、王子を産んだ直後に亡くなった。
 しかも3年後の1540年7月28日には、権力者であった義父のトーマス・クロムウェルもまた、反逆罪で処刑されてしまった。
 さらに追い打ちをかけるように、11年後の1551年6月22日、幼王エドワード6世の摂政だった兄のサマーセット公えエドワード・シーモアが権力争いに敗れて処刑された。その2年後には、叔父を冷酷に処刑したエドワード6世自身も、15歳の若さで崩御した。

 エリザベスは修道院への引退を考えたが、それがシーモア家に終止符を打つことになるのを自覚して、じっと宮廷に留まった。
 1557年、エリザベスはひっそりとセントジョン男爵ジョン・ポーレットと再婚した。
 彼の父は、エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世と、三代の王に大蔵卿として仕えたが、処刑されたサマーセット公と親しかったために、決して信用されることはなかったという。

 エリザベスは実家の興隆から没落までを見届け、5人の王妃と3人の王・女王を見送って後、1561年、ランカシャーで亡くなった。没年もはっきりせず、61年とも63年とも言われている。

 残された肖像画は決して華美なものではないが、金の縁取りのある黒いドレスは品がよく、また顔立ちにも穏やかな気品が漂っている。後世の人間が「王妃ではないか?」と考えるのも無理はない。


 

  参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
Bristol Renassaince Faire by Susan McMahon

bottom of page