コーンウォールの反乱(1497年)The Cornish Rebellion.
反乱軍は英国軍がスコットランド国境で足止めを食らっていると判断し、ロンドン近郊ブラックヒースの丘を起点に、ロンドン攻略のためデプトフォード橋を占拠したのだった。
しかし、事実はジョゼフらの予想に反していた。サー・ダーベニー率いる英国軍10000(又は8000)は、まだロンドンに留まっていて、急遽スコットランド派兵のかわりに、反乱軍を迎え撃ったのだ。
当時は15000人いただろうと言われた反乱軍兵は、最近の研究では実際の人数は、その半分に過ぎなかったのではないか、と言われている。
1497年6月16日、英国軍はブラックヒースの丘頂上に布陣した反乱軍を包囲し、スタンリー卿を指揮官として攻撃を開始した。
翌朝6時、槍兵隊が反乱軍の弓矢隊の列を攪乱した。本来であれば、弓矢攻撃は二列縦隊で並び、前列が撃てば、すぐに後列が前進して次の攻撃に移るのが常識であったが、反乱軍はそれだけの要員がいなかった。また、コーンウオールからの支援も、距離的に難しかった。スタンリー軍に比べ、あまりにも条件が劣っていた。
(ちなみに、このスタンリー卿は、チャールス皇太子と離婚した、ダイアナ元皇太子妃の先祖にあたる)
敵が混乱しているのを見取り、サー・ダーベニー率いる主力部隊が総攻撃をしかけた。
ジョゼフとフラマンクらリーダーは、グリニッジ方向に逃走したが、すぐに捕獲された。
この戦いで、英国側がまったくと言っていいほど無傷だったのに対し、反乱軍は200名の戦死者を出した。
捕らえられたジョゼフとフラマンクは、チューダーの象徴色/緑と白の軍勢に引き立てられながらも、その顔色は自由人だった人々のごとく血色よく、輝いていたという。
10日後の6月26日、二人はロンドン塔内で、反逆罪で死刑を宣告される。
翌日27日朝、2人はタイバーンの処刑場において、首を吊られた後、完全に息絶える前に引きずりおろされ,性器を切り落とされ、腹を割かれた後四肢切断。
その首はロンドン橋に晒された。(この処刑法は、地方の反乱首謀者にはよく適用された。アカデミー賞受賞のハリウッド映画「ブレイブ・ハート」のラスト・シーンにも出てくる)一方途中から参加したオーデリー卿は、貴族特権として、ロンドン塔内で斬首の刑に「減刑」されたという。
処刑の朝、ジョゼフは民衆の前で、自分たちは英国の王冠に対して試みた行為によってコーンウォールにおいて、永遠に名を残し、讃えられるだろうと叫んだ。
そして500年後の1997年、コーンウォールのセント・ケバーンの2人の彫像には、こう刻まれていた。
「 This monument was commissioned by the An Gof Sculpture Trust and created by Terence Coventry as a memorial to the Cornish Uprising in 1497 and in celebration of it's 500th Anniversary.」
(このモニュメントは、1497年の反乱500周年記念において、ジョゼフ(及びフラマンク)を記念するためにテレンス・コーベントリーが制作した。)
参考資料/Cornwall in Focus by Sinmbo .co.uk
An Gof and the Cornish rebels in Deptford, 1497 by Sean Mac Mathua
The Cornish: A Neglected Nation? by Dr Mark Stoyle in BBC
Life in Tudor Times by Jorge H. Castelli
kenow旗というコーンウォールの旗