
マーガレット・ボーフォート/作者不詳/ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵
ボーフォート家の起源
ボーフォート家系図
ボーフォート家人物一覧
ボーフォート家は、プランタジュネット家の庶流であった。
その開祖はエドワード3世の第4王子ジョンである。フランドル地方のゴーントの地で産まれたために、通称を「ジョン・オブ・ゴーント」という。
彼は最初の結婚で、国王ヘンリー4世とポルトガル王妃となる娘フィリッパをもうけたが、やがて妻に先立たれ、カスティーリア王の庶子の娘コンスタンスと再 婚、カスティーリア王妃となるキャサリンを儲けた。彼の子供達は国王1人、王妃を2人も出たことになる。
その他に、ジョンには長年連れ添った愛人がいた。
キャサリン・スウィンフォード・・・2番目の妻が亡くなって2年後、晴れてキャサリンは日陰者の身から、正式な妻となった。すでに4人もの子供が産まれていたが、内紛を避けるために、あえて臣籍を与えて、王位継承権からはずしておいた。
この3番目の妻との間に生まれた長男ジョンには「ボーフォート」の名が与えられ、同時にサマーセット伯爵に封じられた。 ジョンの娘のジョアンはスコットランド王妃となり、その子孫からスチュアート(ステュアート)王朝が成立した。
一方同名の息子ジョンは、伯爵家からさらにランクアップしてサマーセット公を襲名した。
その娘のマーガレットはエドマンド・チューダーに嫁ぎ、そこからチューダー王朝開祖となるヘンリー7世が産まれている。
つまりボーフォート家は王位継承権からはずされていたとはいいながら、何と2つの王朝を輩出している、名門中の名門だったのである。
意外にも、最初の妻との間の子・ヘンリー4世の血統は薔薇戦争の中で途絶えてしまったのだ。
初代サマーセット公ジョンの快挙は、何と言っても娘のマーガレット(1433~1509)をエドマンド・チューダーに嫁がせた事だろう。
エドマンドはヘンリー6世母后が、夫である国王の死後、侍従と同棲して儲けた庶子であったが、異父兄ヘンリー6世に可愛がられ、リッチモンド伯爵の地位にあった。
時にマーガレットは12歳、翌年には妊娠していた。しかし1456年11月、薔薇戦争の最中ヨーク側に捕らえられたエドマンドは、南ウェールズのカマゼン城で斬首された。
その2ヶ月後、マーガレットは14歳の若さで1子ヘンリーを産んだ。
残された墓石の肖像から、父エドマンドは背の高い、ストレートのブロンドの男であったらしいことがわかる。享年26歳

マーガレットは野心的な女であった。というより、殺されたエドマンドの復讐とわが子ヘンリーを王位につけるための執念だったのかもしれない。
最初の夫の死後、数回結婚する。3番目の夫トーマス・スタンリーとの結婚は純然たる政略結婚であったらしい。
結婚後も別居して、それぞれ独立した生活を送っていた。
マーガレットはヨーク王朝が成立した後も、したたかに生き延びた。
リチャード3世の即位の式典でも、夫トーマスは国王の儀仗として付き従い、マーガレットは新王妃のドレスの裾を持っていた。
その一方で、フランスに亡命している息子ヘンリーを王位につけるべく、画策していた。
バッキンガム公をそそのかして蜂起させたものの、直ちに鎮圧され、バッキンガム公は処刑、マーガレット自身も反逆罪に問われた。しかし、夫のトーマスはリ チャード3世に刃向かわなかったために、かろうじて処刑は逃れた。赦免されたマーガレットは、夫の領地のあるランカシャーに隠れ住みながら、息子のヘンリーを上陸させるチャンスを窺っていた。
1485年8月、ついにヘンリー・チューダーはウェールズに上陸した。
トーマス・スタンリーはどちらの味方をすべきか決断を下せないままでいたが、トーマスの弟ウィリアムは、すでにヘンリー・チューダーに寝返っていた。
トーマスはというと、長男を国王の側に人質として差し出していたために迂闊に動けなかったのである。
いっこうに動こうとしない事に苛立ったリチャード3世は、息子を処刑すると脅したが、トーマスは突っぱねた。
それでいながら、ヘンリーからの要請にも「いつ動くかは自分で決める」と返答した。
結局ヘンリーの味方についたのは、ボズワースの決戦で、リチャード3世の敗北が決定してからだった。リチャード3世は勇敢に戦ったが、側近達の裏切りによって戦死したのである。
ついにマーガレットの・・・いや、王位継承からはずされていたボーフォート家の執念は実った。
ヘンリー7世は、ギリギリまで動こうとしなかった義父への不満などおくびにも出さず、トーマスに「親愛なる母の忠誠なる夫にして、最愛の父」と呼んだ。
そしてダービー伯爵の地位を与えたのである。
皇太后となったマーガレットは、その栄光の象徴として、ウェストミンスター寺院にヘンリー7世礼拝堂と回廊を建立させ、ケンブリッジ大学に自分の名を冠したカレッジを創設した。
参考資料/
The Tudor place by Jorge H. Castelli
ダービー伯爵の英国史 バグリー著 平凡社