
フランシス・ベイコン
Francis Bacon(1561~1626)
ベイコン/ヴァンダーバンク作1617年
/ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵
フランシス・ベイコンは、エリザベス治世の初期、国璽尚書((Sir Lord Keeper of the Great Seal)を務めたニコラス・ベイコンの次男として、1561年1月22日ロンドンで生まれた。
父は国璽尚書の地位を事実上、大法官と同じ権限にまで引き上げた男だった。
母は、ウィリアム・セシルの妻ミルドレッド・クックの妹であり、猛女で知られたエリザベス・クックの姉でもあるアンだった。(クック家家系図)
父は大法官に並ぶ高官、伯父セシルは女王エリザベスの右腕という名門に生まれながら、ベイコン自身の政界デビューは、華やかなものではなかった。
1573年、13歳でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入り、3年後にはパリに留学したが1579年、父を失ったために帰国せざるをえなかった。
帰国した彼を待っていたのは、貧困だった。
父ニコラスの遺言は不備だったため、コモン・ローにもある寡婦相続の慣習に従い、不動産の大半を未亡人である母アンが相続したからである。
母アンは、息子がどんなに困窮していても、頑として、己の不動産を手放さなかった。
しかも伯父セシルは、息子のロバートのために、甥をライバル視していた、という。
ベイコンの味方となったのは、女王の寵臣/エセックス伯だった。
1592年、彼は法務長官の地位が空席になっているので、ベイコンを指名するよう女王に働きかけた。
だがベイコンは、議会で女王の増税案に反対して、その怒りを買っていた。
伯父セシルはエリザベスに向かって、法務長官の地位に、次官をプッシュした。
結局エリザベスはベイコンを退け、次官だったクックを法務長官に指名した。
1601年2月25日、エセックス伯が失脚の末に処刑されると、ベイコンは彼を非難する「故エセックス伯ロバート及び一味の反逆行為に関する説明」と称する文章を発表し、その褒美として、エリザベスから1200ポンドを与えられた。
彼が念願の権力を手にしたのは、エリザベスの死後、ジェームス1世の治世になってからだった。
1616年枢密院顧問官となり、翌年ついに国璽尚書の地位についた。
しかしその5年後には、権力闘争の末に収賄汚職の罪を問われ、一切の公職から追放の上、罰金と禁固刑に処せられた。
同年、禁固刑から赦されて後、自分の領地ゴランベリーに引き籠もった。
1626年3月、ベイコンは雪のロンドンを馬車で走っていた。
その時、ふとした好奇心から、なぜ雪の中に肉を埋めておくと腐りにくいのか理由を知りたくなり、鶏肉を買ってきて雪に埋めるなど、いろいろと実験をした。
その時引いた風邪をこじらせ、肺炎に至り、ついに4月9日亡くなった。
「新オルガヌム」等、優れた著書を出しながらも、ベイコンの一生は権力の影を追う儚いものであったのかもしれない。
The Tudor place by Jorge H. Castelli
エリザベスとエセックス R・ストレッチー 中央公論社
世界史人名辞典 山川出版