アン・ブーリンは、在フランス大使トーマス・ブーリンとノーフォーク公女エリザ ベス・ハワードとの間の次女として生まれた。生年月日ははっきりせず、1501年という説もあれば、1507年生まれとの説もある。アンに関して、公式な記録や年代記など、歴史の表舞台に足跡を残すのは、ヘ ンリー8世の愛人となって以降の出来事である。
同時代の人々はこう語っている。
「'not one of the handsomest women in the world.
She is of middling stature,with a swarthy complexion, long neck, wide mouth, bosom not much raised,and in fact has nothing but the King's great appetite, and her eyes, which are black and beautiful - and take great effect on those who served the Queen when she was on the throne. She lives like a queen, and the King accompanies her to Mass - and everywhere
(In the early 1530s, the Venetian ambassador Savorgnano wrote)」
「彼女は、世界で最も美しい女の1人とはいえない。中肉中背、浅黒い顔色、首が長く、大きな口、胸も大きいとは言えないが、その黒く美しい瞳に国王がご執心なのは事実である。また、彼女は王妃の地位に、多大なる影響力を持ち合わせている。
王の行くところ、ミサだろうとどこだろうと同伴し、まるで王妃のようだ。」
(1530年初頭、ベネチア大使サヴァログナーノの記述)
いつ頃ヘンリー8世が、 アンに惹かれ始めたかについては、不明である。
1520年以前ではありえない。なぜならその頃アンは英国にいなかったからだ。
アンは始め王妹メアリー王 女の侍女として、姉妹のメア リー・ブーリンとともにフランス宮廷で仕えていた。
1521年オーマンド伯爵の跡継ぎとの縁談のために帰国し、翌年の3月1日、宮中の仮面舞踏会に出席したのが宮中での最初の記録であった。その後ノーサン バーランド伯の子息ヘンリー・パーシーとの縁談があったものの、すでにアンに気のあったヘンリー8世が、ウルジー枢機卿に命じて圧力をかけ、破談させてし まった。
その頃パーシーとは別に、トーマス・ワイアット(ワイアットの乱の首謀者の父)とも恋人関係にあったと伝えられている。
ヘンリー8世はアンを口説こうとしたものの、アンの答えははっきりしていた。
「Queen or nothing(王妃になるか、一切をご破算にするか)」
1527年、ヘンリー8世は「後継者を儲けるため」という大義名分のもとに、王妃キャサリンを離婚し、アンと結婚することを画策し始めた。
法王との離婚許可交渉は難航を極め、5年もの歳月が流れた。
その間ヘンリーは1529年、宗教改革会議、1532年法王に対する各種の税の支払いの拒否など、着々と英国の宗教的独立に向けて準備を進めていった。
その傍ら、アンに対しては1532年9月1日、ペンブルック女侯爵の地位を贈り、同年10月のフランス王フランソワ1世との会見の場にも同行するなど、王妃同然に扱った。
「Your Majesty must root out the Lady and her adherents.... This accursed Anne has her foot in the stirrup, and will do the Queen and the Princess all the harm.
she can. She has boasted that she will make the Princess her lady-in-waiting, or marry her to some varlet.
(The Imperial ambassador, Eustace Chapuys, described circumstances in early 1533 to his master, Charles V)」
(陛下はあのレディ(アン)とその支持者を根絶しなければなりません。この呪われたアンめは、王女と王妃に及ぶ限りの災いをもたらすべく、その足を鐙(あぶみ)にかけております。あの女は王女を侍女にするか、ならず者の嫁にしてやる、と自慢しておりました。」(神聖ローマ帝国大使がカール5世に送った手紙/1533年/著者訳)
1533年1月、アンが妊娠した事がわかると、その年の5月23日、キャサリン王妃との結婚は、無効であったとの宣言がなされた。続く6月1日、聖霊降臨祭日の木曜日、ウェストミンスター大聖堂で、アンの戴冠式が強行された。ロンドン塔から楽団付きの華やかな艀(はしけ)に乗って到着したアンの一向だが、迎える市民達は困惑の中で口を閉ざすか、罵声を上げるかの、どちらかだったという。
1533年9月7日、アンはグリニッジ宮殿で第2王女エリザベスを出産した。
3日後の9月10日、王女の洗礼式と同時に、第1王女メアリーの王位継承権は奪われ、かわりにエリザベス王女が皇太女となった。
アンのデッサン/ホルバイン作/ウィンザー城王室コレクション
アンをきっかけにした宗教における「絶対主義」の流れは、もはやアンとは 関わりなく、怒濤のごとく驀進していった。
エリザベスが生まれたその年のうちに、「国王至上法」が発令され、「英国王を英国国教会の唯一の首長と解し、認めかつ見なす」とされた。
しかしアンの幸運は、エリザベスの誕生を境に、下り坂になっていく。
なかなか王子が生まれない事に苛立ったヘンリーは、アンとの離婚を考えるようになる。
王族であるキャサリンすら王妃の座から引きずり下ろされたくらいだから、下級貴族の娘アンの地位など、吹いて消えるが如くであった。
その頃アンの周辺には、不義密通やメアリー王女暗殺未遂を含めた、暗い噂が流れていた。
ヘンリーは、大法官クロムウェルに調査を命じた。
その結果、1536 年4月30日、アンの愛人と目された音楽家マーク・スミートン、ヘンリー・ノリス卿、また叛逆の共謀者としてアンの実兄ロチフォード卿 ジョージ・ブーリンらが逮捕された。アン自身は遅れること3日、5月1日に逮捕された。かつて愛人だったとの噂のあるトーマス・ワイアットも逮捕された が、証拠不十分として解放された。
5月15日、アンとジョージの2人はロンドン塔グレートホールで裁判にかけられた。
2人は有罪になったが、アンは火刑から、ジョージはタイバーンでの四肢切断刑からそれぞれ単純な斬首へと減刑された。
2日後の17日、ジョージが処刑され、アンも後を追うように19日に処刑された。
アンは処刑台の上から、見物人たちにむかって、こう語りかけたという。
「'Good Christian people, I am come hither to die, for according to the law,
and by the law I am judged to die, and therefore I will speak nothing against it.
I am come hither to accuse no man, nor to speak anything of that, where of
I am accused and condemned to die, but I pray God save the king and send
him long to reign over you.(made by the Tudor chronicler Edward Hall.) 」
(良きキリスト教徒のみなさん、私は死の判決が下り、死ぬためにここに来ました。
そのことについて何も言うことはありません。私は誰かを非難するためにここに来た
わけでもなければ、何かを語ったり、また、死について抗議するために来たわけでは
ないのです。しかし、神が王を護り、その御世が長からんことを祈ります。
チューダー王朝年代記編纂者/エドワード・ヒル/1536年)
昔の恋人であったノーサンバーランド伯トーマス・パーシーは、アンがメアリー王女を暗殺しようと考えていたのは事実だろう、と語った。
またヘンリー8世もアンの処刑後、庶子のヘンリー・フィッツロイとメアリー王女を抱きしめながら、「これでおまえたちを害そうとする魔女はいなくなった」と告げたという。しかしアンの死で最も救われるはずだったキャサリン前王妃は、その4ヶ月前に亡くなっていた。
1519年5月19日、 伝承によれば、ヘンリー8世はリッチモンドのエッピングという森、テムズ川に突き出た小高い丘に立って、反逆者アンの処刑の知らせを聞いた、と伝えられている。今もリッチモンド公園には、ヘンリー8世が立っていたというカシの林が残されている。
狩猟中、カシの木の下に立ち止まったヘンリーの耳に、アン処刑の合図であるロンドン塔の大砲の音が響いたのである。
と同時に、ロンドン塔の上には反逆者滅亡を示す旗が翻った。
アンの遺体はその日のうちに処刑場の正面にある聖ピーター・アドビンキュラ教会の墓穴に、葬式もなく放り込まれるように埋葬された。
それが反逆者の悲しい宿命だった。